サラリーマンをやめたら、通勤がなくなった。
通勤するという概念がなくなった。
サラリーマンであるとたいていは
決められた月日を
決められた時間に
決められた場所で
拘束されるために毎日往復移動しなければならない。
通勤だけで1日の数時間が確実に消失する。
1年を通して考えると何十日間も移動することだけに時間を消費していることになる。
一生を通して考えたらいったい何年間を居心地のよくない電車のなかで過ごしているのか。
混雑する乗り物や渋滞する道路で時間をつぶす方法をいろいろ考えながら。
ときには事件や事故やトラブルや不快感に巻き込まれる不遇が待ち受ける。
ときには遅延証明書という性悪説にもとづく紙切れが配られたりしている。
いくら前向きに考えてもどうもよろしくない古典儀式のようだ。
身体があまり丈夫でない私にとっては通勤時間の分だけでも休息することでそのほかのすべてに良い影響だけが生まれる。
モノが関わる仕事に通勤は必須ではあるけれど形而上のコトを取り扱うデスクワークであれば会社に出向かなくても可能な業務も多い。
通勤という儀式に無抵抗かつ無疑問で服従している人は多い。
疑うことなく考えることなく何十年も繰り返してきた。
サラリーマンを手放したらこれらの怪奇現象的な概念と徒労が一切なくなり幸福感は増すばかりだ。
いくばくかの不確かな賃金と不安から逃げるため一時しのぎの麻酔をうち続けるような生活だったがサラリーマンを止めてほんとうによかった。