サラリーマンをやめたら、ニワトリだったと気が付いた。
それまでは自分の意志で仕事を選び判断をして自身の思考で生きていると思っていた。
サラリーマンをやめたときその事実が大きく間違えていることに気づかされた。
仕事は選ぶものではなく仕事に選ばれている。
養鶏場のニワトリはただ卵を産まされるためだけに整列させられ狭いケージに収束されている。
ただエサを食べ続け卵を産めなくなるまで産み続ける。
サラリーマンをやめたときケージの外からの景色に気が付いたのだ。
エサ(月のサラリー)を与えられ続けケージ(週5~6の通勤⇔職場)で卵(労働)を産み続ける。
卵が産めなくなったらそれでお払い箱だ。
そこにはエサを食べる自由とケージに収まる自由と卵を産み続ける自由があると信じているニワトリだった自分がいた。
インフルエンザに罹患しても保険が利くのが唯一の違いだ。
場長が不渡りを出したらより一層卵を早く産めと強要されあげくはぼろぼろになって卵が産めなくなってから放り出される。
イタチやキツネになぶり殺されるのがオチだ。
それでもニワトリは養鶏場にいるうちはある程度安全でエサに困らないからたいていのニワトリには快適だ。
野放しのニワトリはすぐに外敵に駆逐されてしまうだろうし。
ただインフルエンザに罹患したら一斉に連帯殺処分だ。
リスクはどちらも大差ないのかもしれない。
だとすれば自らの意思でリスクを享受することのほうが生きがいがあるというものだ。
疑うことなく考えることなく何十年も繰り返してきた。
サラリーマンを手放したら人間としての尊厳を奪還することができた。
いくばくかの不確かな賃金と不安から逃げるため一時しのぎの麻酔をうち続けるような生活だったがサラリーマンを止めてほんとうによかった。