サラリーマンをやめたら、人生を支配できた。
生きることや考えることそのすべてが実は支配されているとしたらどう感じるだろうか。
たいていの日本人はそんなことはないとおもうだろうし自分も以前はそうかんがえていた。
サラリーマンという選択は実はほとんどが被支配者となることを選択し享受することを意味していたこを知った。
自分の意志で生きているつもりがそのほとんどは選択肢は限定されている。
仕事は自分で選べるものではないが人生は自分で選んで挑戦していくべきだ。
サラリーマンを手放せないひとのほうがほとんどだし大半だし職業の母数となるのは当然だ。
すべての人がサラリーを得る選択を手放したら現代の社会は停止してしまう。
それでもいまの日本社会は大きな組織やサラリーマンを養うことができなくなってきている。
もはや後退型停滞社会になっているからだ。
もはや支配されることすら難しい局面となっている。
能力や肩書が活かせたのは余剰な流動があったからであって決してそれらに特殊な才能やとびぬけた技量があったわけではないと感じる。
他人より上手にボールを運ぶ方法ややり方が得意な人がすこし優遇されていただけでボールを運ぶ必要がなくなれば運搬人を確保する必要はなくなる。
いまでも支配されることの心地よさと本当の意味で考えるということしないことは魅惑的だ。
それでもサラリーマンをやめてよかったのは自身の人生を取り戻すことができたからだ。
生活をするための生活という監獄は他人の尊厳などおかまいなしでティッシュペーパーのように扱われていたような感覚におちいる。
疑うことなく考えることなく何十年も繰り返してきた。
サラリーマンを手放したら人生を奪還することができた。
いくばくかの不確かな賃金と不安から逃げるため一時しのぎの麻酔をうち続けるような生活だったがサラリーマンを止めてほんとうによかった。